#01 文章作成モチベを上げることは可能か?

昨日あたりからなぜか見切り発車で立ち上がったこの趣味サイト。
なんとか記念すべき1記事目ができあがったのもつかの間、2日目にして早くも壁につきあたっている。早いな。

文章構成って、思ったより大変だよねぇ。

率直に言うと、文章作成に体力と精神力を消耗しすぎてしまう。
いわゆる、キャパ不足ってやつです。

おおよそいつも文章作成の前はきまって、エンジンが温まるまでに非常に時間がかかるんですね。

「…そろそろ書くか? …もう少し間を置きたいけども…… ちょっと参考になるページでも、見るかな…? じゃぁ、11時になったら1文目を書き始めようかな…?」

と誰に向けてか分からない言い訳をウダウダしつつ、机のまわりをうろつく。
誰も見てないかもしれないこの趣味サイトの1記事に、なぜこのような心血を注いでいるのだろうか。なかなか、滑稽な姿である。

そして意を決して机にむかい、調子が乗ってくると、その勢いでガバッと一気に書き上げる。
これまでとは一転、気持ちが乗ってくると意外と結構楽しいのだ。
細部の文章調整はまぁメンドウだけど、あーでもないなぁ、こーでもないなぁ、なんていいながら文章を組み立てていくプロセスは、なにかレゴブロックやプログラミングのそれに似ているよーな気もします。

そして最後の文章を書き終えたときは「…っくはぁー!」と声に出すようなパッションに満たされる。まさしく、風呂上がりにコーヒー牛乳を飲みほすときの、達成感と虚脱感が同時に襲う感覚に襲われる。がんばった、走り切ったぞ自分。

( 趣味の1作業に対して体力使い過ぎだろうよ・・・。 )

・・・ということで、これを毎回やっていては継続が思いやられるので、
もう少しスマートにモチベを維持する手法について考えてみたいと思います。

そもそもこの作文前の “負荷感” って何なん?

この作文前の “負荷感” - それはおそらく、「終わりが見えないことによる心理負担」だと私は思うんですよね。
誰だって、終わりのない作業は強く負荷を感じます。
「赤ちゃん…早く寝てくれ…」という育児の大変さだったり、「定時を終えても延々と積まれつづける」残業仕事などにも通ずるような気がします。

振り返ってみれば最初の記事、私は文頭から思いのままに書き綴るスタイルで進めてしまったんです。構成など当然つくっておりませんでした。

そもそも私の良くない癖なんですが、人との対話でもよくやってしまうんですよね
思いつくままの、とりとめない話し方。
ただ、口頭であればすぐに話が進むので、話の筋が少し外れたとしても「本筋に戻りまして…」が容易なんですよね。口頭だと脳内できちんと戻るべき筋を覚えているので、その気になればいつでも戻すことができる。

ですが、このような書き文章だとそうはいかない。書きでは、読まれることを想定したうえで一つ一つの文を煮つめて置いていくスタイルになります。
言葉のアソビや余談を残しておくと、ノイズだらけの文章になってしまう。
取捨選択してあえて残すのは文字通り「アソビ」にはなるのですが。
意図せず残した雑談は、ただのノイズと化してしまう。

そうなると、本筋はあっという間に見えなくなってしまう
書き手も終わりが見えず、徒労感を感じるだけの悪循環を生んでしまう、というわけです。
なんで前回の時点で気づけなかったんだろう。

プロットに始まり、プロットに帰結する

人間の感情ってゆらゆら波みたいなもの。
私自身も心の中は液状化したような生き物です。
放っておくとどんどん、関係ない思考、派生のアレコレで飲み込まれそうになる

こんな私なので、意識して枠組みをつくらないと、とても非論理的な文章になってしまう。
やはりプロの人が見れば基本の「き」の話だと思いますが、
やはり文章はプロットに始まり、プロットに帰結するのでしょう

プロット(構成):

主題はなにか。
どの順番で、どう伝えるか。
どこをメインとして膨らませ、最後に何を伝えなおすか ― 

骨組みさえきちんと構成されていれば、どれだけ間違ったとしても、ちゃんと話のゴールに帰結する。
ティラノサウルスの骨にどれだけ肉づけしたところで、それがトリケラトプスになることは決してないのだ。
このような雑記であろうと、それは変わりない原理原則なのだな、と気づくことができた。


というわけで、いくらカービィ愛に興奮しようとも、今後はきちんとプロットにしたがって進めようという話でした。

等身大でゆったり表現できる自分へと深化していきたいですね。