#03 姿を消して、自分と向き合う

人と話しているとき、時間はずっと“動き続けている”んですよね。
相手の感情を読んで、言葉を選んで、空気に合わせて…。
ずっと微調整をしながら動く時間。

そんな日々が続いていると、ふと、姿を消したくなる瞬間があります。
誰に見られるわけでもなく、評価されるわけでもなく、
ただ、本当の自分だけと向き合いたいと思う瞬間。

姿を消すという行為は、私にとって逃げではありませんでした。
むしろ、「回復」に近いもの。
静かに、元の自分へ戻っていく入り口のようなものです。


本心を映す、ひとりだけの時間。

深夜、家の中が静まり返った頃にPCを開くと、
心の奥からぽつりと声が湧いてくることがあります。

「自分らしい選択をしているかな・・・」

この声…誰かと一緒のときには絶対に聞こえないんですよね。

ひとりでないと見えないものがあって、
ひとりでないと降りてこない感覚があって、
ひとりでないと、自分とまともに話すことができない。

人と過ごす時間は “動いている時間”。
ひとりの時間は “止まっている時間”。

時間が止まったときにしか、
心の深いところは姿を見せてくれないんだな、と最近よく思います。


”姿を消す” ことで知る感覚

私にとって“姿を消す”行為は、
次の三つの比喩に近いです。

1. 時間を止める

人と過ごす時間は時計が回り続ける。
ひとりの時間には時計がない。

ただ自分だけが存在している静止した空間。

2. 影に入る

人の世界は光の中。
明るいけれど、眩しすぎると自分が見えなくなる。

影に入る時間こそ、自分の輪郭がはっきりする。

3. 根に触れる

派手な表面ではなく、
誰の目にも触れない“根っこ”を育てる時間。

根を育てることでしか、未来の幹は育たない。


どれも、「ひとりになる」ことで初めて感じ取れる感覚です。


静けさがもどる - マイ・ルーム空間

姿を消したとき、最初に戻ってきたのは“静けさ”でした。
その次に…、“心地よさ”。

ずっと人の期待を背負っていた身体から、
重りが「ストン」と落ちたように感じた瞬間がありました。

ひとりになって初めて、
「あぁ、無理してたんだな…」
と気づきます。

誰にも見られていないときの私は、かなり静かです。
あぁだこうだと思索しては、ユニークさを求めて、
誰のためでもなく、自分が面白いと思う方向に思考を組み立てていく。

ただただ積み木でひとり遊びを楽しむような、そんな性質です。

そこには評価も存在しないし、
誰かの望みも必要ない。

ただ純粋に、「これが好き」へ向かう。
それが本来の私だったんだと思います。


”ひとり” に集中して、失ったもの・得たもの

姿を消すことで失ったものも確かにあります。

  • 「いい人」としての飾り
  • 誰かに合わせるための社交的な自分
  • 好かれるために作ったキャラ
  • 承認欲求で動く自分
  • 一握りの、寂しいという感覚

けれど、失ったもののほとんどは “背伸びした自分” だった。

一方、得たものは私にとって大きいものだった。

  • 心の充足
  • 自由な発想
  • 自分の根へのアクセス
  • 主体性
  • 本心に忠実でいたいという静かな決意

とくに…「自分の人生を、自分視点で考える主体性」
これは、姿を消さないと手に入らなかった感覚です。

外に合わせて生きていた頃の私のままだったら、
きっと一生気づかずに終えていたかもしれないですね。


“回復”のための孤独をえらびとる

姿を消すことは、決して逃げではありませんでした。


私はずっと他者の期待で自分の価値をはかり、
誰かの反応に合わせて動きつづけてきたけれど──

それは「私の人生」ではなく、
「誰かの人生の余白を埋める生き方」だったんだと思います。

姿を消した時間の中で、
ようやく私はその重力を手放せました。

静かで、ひとりで、
ただ自分の声だけがはっきり届く場所。

そこで初めて、
“自分の人生を自分視点で考える”という主体性が戻ってきた。
あの感覚は、孤独ではなく回復。
未来へ潜っていくような、静かな潜水でした。


姿を消すことで見えた、内側の世界

ひとりで潜った時間の先で、私は気づきました。

守るべき場所は外側ではなく、
ずっと内側にあったんだな、と。

自分の根を育てること。
自分の表現を磨くこと。
自分の時間を、ちゃんと自分のために使うこと。

それはわがままでも自己中でもなく、
むしろ最愛の人たちを守る“土台”になる。

自分が整えば、外側にも優しさは自然に流れていく。
だからこそ、まずは内側を守ればいい。
根を育てればいい。

ようやく自分の人生の中心に戻ったいま、あとは行動して前に進むだけ