#05 文章を書くとき、壁になるのは “私の評価”

文章を書くとき、いつも立ちふさがる壁がある。
それは、読み手の存在でも、世間の目でもなく、
もっと身近で、もっと厄介なもの。

――“私の評価”。

私はずっと、この壁に苦しめられてきた。
文章を書きたいのに、筆が止まる。
言葉を置きたいのに、胸がつまる。
考えたいのに、頭が真っ白になる。

これは、弱さではなく、性格でもなく、
私がこれまで歩んできた「外社会での経験」と深くつながっている。

◆ 家の中では自由だった。外社会では委縮していた

私は小さいころ、家の中ではどこまでも自由だった。
歌でもダンスでも、好きなことは没頭し、
遠慮も恥じらいもなく、自分の世界を広げていく子どもだった。

けれど、家の外に一歩出ると、世界はまったく違って見えた。

部活の試合では、突然イップスのように身体が動かなくなった。
塾で先生が後ろに立つと、頭が真っ白になり、手が震えた。
受験前の模試では、A判定だった科目を白紙で提出したことさえある。

“試される場面”になると、私は急に自分を失ってしまう。
身体が固まり、呼吸が浅くなり、視界が狭くなる。
平常心はどこかへ消えて、ただ「恐怖」だけが残った。

この経験の積み重ねが、私の中に
「評価=自由を奪うもの」
という感覚を作り上げた。

文章を書くときにも、これがまったく同じ形で顔を出す。

◆ 私にとっての“評価”は、自由を奪う「呪い」だった

「評価」と聞くと、多くの人は“上か下か”を判断されるイメージを持つかもしれない。

でも私にとって評価とは、
ただの判定ではなく、
心身を拘束する“呪い”のような感覚だ。

評価とは、決められた尺度で測られること。
そこに合わせようとするたびに、
私の中の“こうありたい理想像”がむくむくと膨らみ、
現実との乖離に自分がつぶされていく。

本当は、外の誰かに厳しく評価されているわけでもない。
私を苦しめているのは、
**自分自身がつくり上げた「内側の評価者」**だ。

文章を書くとき、
「読み手はどう思うだろう?」
「これはヘンじゃないだろうか?」
その“声”は他人からではなく、
すべて自分の中から聞こえてくる。

そして、その声に自分で自分を縛りつけてしまう。

◆ “評価の視線”が入ると、身体は真っ先に反応する

文章を書くとき、怖さを感じる瞬間、
身体は率直に反応する。

・肩に力が入り、呼吸が浅くなる
・胸がつまって鼓動が速まる
・視界が狭くなる
・目的を見失い、思考が空白になる

これは、外社会で委縮したときとまったく同じ反応だ。

文章を書くときの恐怖は、
「過去の自分」が身体の中に残していった記憶が再生されているだけなのだ。

◆ “評価”と“理解”は似ているようで、まったく違う

私は長い間、「評価されたい」ようでいて、
実は評価されることを深く恐れていた。

最近気づいたのは、
私が本当に求めていたのは評価ではなく
**理解(わかってもらうこと)**のほうだった、ということ。

評価とは、
一部だけを取り出して、尺度でジャッジされる浅いもの。

理解とは、
相手の全体像や価値観まで含めて見つめる深い行為。

私はこの“深い理解”を求めながら、
“浅い評価”に自分が巻き込まれて苦しんでいたのだ。

◆ では、誰に理解されたいのか?

突き詰めれば──
私が理解されたい相手は「自分自身」なのだと思う。

他人に合わせた生き方は、
自分の人生を外側に委ねることと同じ。

「私はこう生きる」
「これが私の価値観だ」
そう言い切れる自分でいたい。

そのためには、
“違い”をそのまま赦し、
“理想像”にしばられず、
“好き・楽しい”を堂々と追いかける心を持つこと。

自分自身に理解されることが、
評価の呪いから自由になる唯一の道なのだと思う。

◆ 評価の恐怖を超える方法は、“場数”だった

文章を書くことに慣れ始めたのは、
最初の数記事を書き終えた頃からだ。

「評価を気にしないようにしよう」ではなく、
単純に、場数の問題だった。

評価恐怖は、
繰り返し外に出て、慣れることでしか薄れない。

私はSNSの捨て垢で意見を書く練習をしたり、
町内コミュに飛び込んだり、
初対面の人と話したり、
一人旅に出たり──

小さな “外社会での訓練” を積んで、
自分の殻を少しずつ壊してきた。

心理学でも、恐怖は
**「反復曝露」**によって弱まると言われている。

文章も同じ。
書き続けることでしか、
評価の呪いは薄れていかない。

◆ 評価が完全になくなったら

私はどんな文章を書くのだろう?

それはきっと、
ナルシストで、
アホで、
おもしろくて、
喜怒哀楽が羅列されて、
オタク性が爆発していて、
意味があるような、ないような、
ただただ“書く喜び”だけが先に立つ文章。

文字だけでなく、
絵や音や動きに広がっていく表現になるかもしれない。

“評価の枠”がない場所では、
私は自由になる。
きっととても生き生きしている。

◆ 結論:壁になるのは“他人の評価”ではなく、“自分自身の評価”

文章を書くとき、
私を縛っていたのは他者の目ではなく、

「こうあらねばならない」という
自分の内側の声だった。

外の評価から自由になりたいなら、
まず私が私を赦す必要がある。

自分自身に理解され、
自分自身に認められたとき、
文章は静かに自由へ向かっていく。

◆ 評価の呪いの外側に、本当の文章がある

文章とは、自分の核を外に置く行為だ。
だからこそ、怖くて当然。

でも、その怖さの向こう側に、
“本当の言葉”は生まれる。

評価から自由になれる日は、
まだ遠いかもしれない。
でも、その方向に歩き始めた瞬間から、
文章は変わり始める。

静かに、確かに、
自由へ向かっていく。