#02 言葉が先か、心が先か

文章を書いていると、ときどき思うんですよね。

——言葉が先なんだろうか。
——それとも、心が先なんだろうか。

これは昔、大学の教授が言っていた言葉で、
ずっと頭のどこかに残っている問いです。

人は「感じたから言葉にする」のか。
それとも「言葉にするから感じられる」のか。

少なくとも私は、どちらか一方では説明できないな、と感じています。


● 「心」先行タイプのひと

これは、最初に“思い”が立ち上がり、あとから言葉が追いつくタイプといえます。

雑談時のときの私は、まさにこれです。
「あーでもない、こーでもない」と感情が先に走る。

フォーカスが次へ次へと移っていくので、
話の終着点に着く前に、思いのままに寄り道をしがちなんですよね。

このタイプに適する文章は、おそらく

  • エッセイ
  • 日記
  • 内省
  • 小話
  • 感性をそのまま置く文

のような“気流のある文章”です。

論理で整えるより、言葉の質感を丁寧に磨いたほうが輝く
感情をいかに情感豊かに、臨場感をもって魅せるかという点ですね。

短文で一気に書き切ったり、
シリーズ化で流れを作ったりすると映えるタイプですね。


● 「言葉」先行タイプのひと

今度はその逆、
言葉で明示化して枠をつくることで、思索がどんどん広がっていくタイプです。
私が “書く” ときは、完全にこちらですね。

言葉を置いていくうちに、
「あ、私はこう思っていたんだ」と後から気づく。
言葉が心を連れてくるような感覚です。

考察・解説・分析の文章に向いていて、
構成(プロット)を最初に組むと一気に書きやすくなるんですよね。

このタイプはテーマに強いこだわりがなくても大丈夫で、
書いているうちにテーマが育っていくと思います。

だから私は、テーマ決めの補助にAIを使うことも多いです。
(自分では思いつかない切り口が提示されるので、とても助けられます。)


2つは対立ではなく、「循環」の関係

ここが一番大事な部分なのですが、

心 → 言葉
だけでもなければ
言葉 → 心
だけでもない。

文章とは、この二つの往復運動なんですよね。

心が動いて言葉が生まれ、
言葉を書くことで心が深まり、
そうしてまた、そのつぎの言葉が見えてくる。

書く行為は、外に向けた発信というより
自分の内側に「輪郭」をもたせるための作業
なのだと思います。

文章を書き終えると、
“さっきまで曖昧だった自分” が立体的になって現れてくる。

だから私は、書くこと=自分自身を整理するような感覚に近いです。
日記もそうですよね。
書いた後で「スッキリした」という経験もあるのではないのでしょうか?


正解はどこにあるのか?

結論を言えば、正解なんてないんですよね。

ただ、大切なのは

自分はどちらから動くタイプか?

これを知っておくことだと思います。

心が先に動くなら、短文やエッセイで “質感” を磨く。
言葉が先に動くなら、構成をつくって “論理” を磨く。

どちらも等しく美しいし、どちらも文章になる。

つきつめれば文章とは、
”自己が行う思考の軌跡”
なのだと思います。

私が書こうとする理由も、きっとここにあるのかと…

書くことでしか見えないものがあって、
書くことでしか触れられない自分がいて、
書くことでしか整わない何かがある。

だから今日もあしたも、言葉を置いていくのだと思います。


どちらが正しいかではなく、
“どちらが自分を前に進めるか”。

その視点で見ると、文章はすこし自由になるのかもしれません。

この話のつづきは、 「いい文章って誰が決めるのか?」 で触れていきますね。
ではまた。