文章を書いていると、ふと疑問が浮かぶときがあります。
——いい文章って、誰が決めるんだろう?
世の中には「読みやすい文体」や「うまい構成」が存在していて、
たしかにそれらは文章技術として役に立つ。
でも、その技術が“文章の良し悪しを決める絶対基準”になるかといえば、
私はどうも、そうは思えないのです。
文章の「いい」「わるい」は、ひとりひとりの価値観の方向にすぎません。
読み手の数だけ評価軸があって、
誰かにとっての「好き」は、別の誰かにとって「響かない」。
だから結局のところ——
“いい文章”なんてものは、最初からひとつに決まっていない。
そう思うようになりました。
価値観の方向が、文章の“刺さる・刺さらない”を決めている
ひとは、技法に感動するわけではなくて、
文章の奥にある「価値観の方向」に惹かれるんですよね。
どんなに整った文章でも、背後にある価値観が曖昧だと、
読み手の心に輪郭が立たず、印象も残らない。
逆に、多少いびつでも価値観が明確に見えている文章は、
その人の輪郭がくっきり描かれていて、妙に心に残る。
つまり文章とは、ただの“媒体”なんですよね。
そこに置かれている価値観——その人自身——に、人は反応している。
背伸びした文章にひそむ「恐れ」
私自身、文章を書こうとすると背伸びしたくなる瞬間があります。
なんでも知っているふうに。
高尚なことを言っているふうに。
「できる自分」を少し大きく見せたくなる。
……でも、その背伸びは後から読むと本当に恥ずかしい。
「自分、大したことないのに何を気取ってたんだろう」
「偽物みたいに映ってないかな」
そんな感覚がふわっと押し寄せてくる。
この“恥ずかしさ”の正体は、
きっと “本物じゃない自分を見透かされる恐れ” なんですよね。
だから表面を飾る。
余計な修飾を重ねる。
格好をつけて安心しようとする。
でもそれは、すぐに歪みになります。
恥ずかしい文章こそが、成長の入口だった
ただ、最近ようやくわかってきたのは——
この恥ずかしいプロセスこそが、文章の成長に欠かせないということ。
背伸び → 崩す → また書く → また恥ずかしい → また崩す
この「破壊と創造」の繰り返しが、
いつの間にか自分の文体を整えていく。
削って、削って、削っていくと、
最後に残るのは「価値観」の部分だけになる。
そこにこそ、人は心を動かされる。
いびつさや苦悶の跡が残っているほうが、
むしろ文章としては“美しい”とさえ感じる。
綺麗に整えた名文より、
自分の試行錯誤が刻まれた文章のほうが、
読み手の心に触れたりするものなのですね。
ひとを動かすのは技法ではなく、“ストーリー”である
そして、このテーマでいちばん伝えたいのはここです。
人が心を動かされるのは、文章の上手さではなく「その人のストーリー」だということ。
私はこれを、自分の文章で強烈に自覚した瞬間があります。
父が亡くなり、「時間が有限だ」と気づいてしまった時期。
そこから対人関係の捉え方も、生き方の優先順位も変わった——
その文章は、技法としては未熟だったかもしれない。
でも、読むたびに胸が締めつけられる。
自分の感情と当時の決意が、いまでも“自分ごと”として蘇る。
あれは技法で書いたものではなく、
“価値観と経験が完全に重なった文章” だったから。
一般論は誰でも書けるけれど、
その人の人生は、その人にしか書けない。
そこに触れたとき、
文章は「情報」ではなく「体験」になるのだと思います。
技術は必要。けれど主役ではない
もちろん文章技術は大事です。
読みにくい文章では、価値観まで届かないから。
たとえば——
・構成をそろえる
・比喩の距離感を調整する
・呼吸のリズムを整える
・起→核→静の順番で置く
これらは、書き手の価値観を届けやすくする“補強材”です。
文章の主役は、やはり「価値観」そのもの。
技法はその輪郭を描くための鉛筆であって、
輪郭そのものではない。
「いい文章」よりも、「自分の価値観が見える文章」を
だから思うのです。
“いい文章”なんてはじめから存在しない。
あるのは、
「どんな価値観を置くか」
「その価値観がどれだけ正直であるか」
ただそれだけ。
上手く見せるより、
背伸びするより、
読者に媚びるよりも——
自分の価値観をまっすぐ置いた文章のほうが、
読み手には静かに、深く届いていく。
そして最後に残るのは、技法ではなく
“その人がどんな世界で生きているか”
という輪郭です。
私はそれを、静かに描ける文章を書いていきたいなと思います。