人と話しているとき、時間はずっと“動き続けている”んですよね。
相手の感情を読んで、言葉を選んで、空気に合わせて…。
ずっと微調整をしながら動く時間。
そんな日々が続いていると、ふと、姿を消したくなる瞬間があります。
誰に見られるわけでもなく、評価されるわけでもなく、
ただ、本当の自分だけと向き合いたいと思う瞬間。
姿を消すという行為は、私にとって逃げではありませんでした。
むしろ、「回復」に近いもの。
静かに、元の自分へ戻っていく入り口のようなものです。
本心を映す、ひとりだけの時間。
深夜、家の中が静まり返った頃にPCを開くと、
心の奥からぽつりと声が湧いてくることがあります。
「自分らしい選択をしているかな・・・」
この声…誰かと一緒のときには絶対に聞こえないんですよね。
ひとりでないと見えないものがあって、
ひとりでないと降りてこない感覚があって、
ひとりでないと、自分とまともに話すことができない。
人と過ごす時間は “動いている時間”。
ひとりの時間は “止まっている時間”。
時間が止まったときにしか、
心の深いところは姿を見せてくれないんだな、と最近よく思います。
”姿を消す” ことで知る感覚
私にとって“姿を消す”行為は、
次の三つの比喩に近いです。
1. 時間を止める
人と過ごす時間は時計が回り続ける。
ひとりの時間には時計がない。
ただ自分だけが存在している静止した空間。
2. 影に入る
人の世界は光の中。
明るいけれど、眩しすぎると自分が見えなくなる。
影に入る時間こそ、自分の輪郭がはっきりする。
3. 根に触れる
派手な表面ではなく、
誰の目にも触れない“根っこ”を育てる時間。
根を育てることでしか、未来の幹は育たない。
どれも、「ひとりになる」ことで初めて感じ取れる感覚です。
静けさがもどる - マイ・ルーム空間
姿を消したとき、最初に戻ってきたのは“静けさ”でした。
その次に…、“心地よさ”。
ずっと人の期待を背負っていた身体から、
重りが「ストン」と落ちたように感じた瞬間がありました。
ひとりになって初めて、
「あぁ、無理してたんだな…」
と気づきます。
誰にも見られていないときの私は、かなり静かです。
あぁだこうだと思索しては、ユニークさを求めて、
誰のためでもなく、自分が面白いと思う方向に思考を組み立てていく。
ただただ積み木でひとり遊びを楽しむような、そんな性質です。
そこには評価も存在しないし、
誰かの望みも必要ない。
ただ純粋に、「これが好き」へ向かう。
それが本来の私だったんだと思います。
”ひとり” に集中して、失ったもの・得たもの
姿を消すことで失ったものも確かにあります。
- 「いい人」としての飾り
- 誰かに合わせるための社交的な自分
- 好かれるために作ったキャラ
- 承認欲求で動く自分
- 一握りの、寂しいという感覚
けれど、失ったもののほとんどは “背伸びした自分” だった。
一方、得たものは私にとって大きいものだった。
- 心の充足
- 自由な発想
- 自分の根へのアクセス
- 主体性
- 本心に忠実でいたいという静かな決意
とくに…「自分の人生を、自分視点で考える主体性」。
これは、姿を消さないと手に入らなかった感覚です。
外に合わせて生きていた頃の私のままだったら、
きっと一生気づかずに終えていたかもしれないですね。
“回復”のための孤独をえらびとる
姿を消すことは、決して逃げではありませんでした。
私はずっと他者の期待で自分の価値をはかり、
誰かの反応に合わせて動きつづけてきたけれど──
それは「私の人生」ではなく、
「誰かの人生の余白を埋める生き方」だったんだと思います。
姿を消した時間の中で、
ようやく私はその重力を手放せました。
静かで、ひとりで、
ただ自分の声だけがはっきり届く場所。
そこで初めて、
“自分の人生を自分視点で考える”という主体性が戻ってきた。
あの感覚は、孤独ではなく回復。
未来へ潜っていくような、静かな潜水でした。
姿を消すことで見えた、内側の世界
ひとりで潜った時間の先で、私は気づきました。
守るべき場所は外側ではなく、
ずっと内側にあったんだな、と。
自分の根を育てること。
自分の表現を磨くこと。
自分の時間を、ちゃんと自分のために使うこと。
それはわがままでも自己中でもなく、
むしろ最愛の人たちを守る“土台”になる。
自分が整えば、外側にも優しさは自然に流れていく。
だからこそ、まずは内側を守ればいい。
根を育てればいい。
ようやく自分の人生の中心に戻ったいま、あとは行動して前に進むだけ。