気づけば、人生の多くの時間を「いい人」になろうと費やしてきたと思う。
そう気づいたのは、PCを前にひとり静かに作業するようになってからだった。
小さな頃から、人に合わせることが癖でした。
相手の顔色を読み、反応を想像し、自分の言葉や行動を調整する…
もはや会話というよりも、「面接なの?」というような言動ですよね。
実体なき ”正解” を求めてふるまう姿は、なんだか滑稽でもあり。
きっと、“嫌われたくない”という感情が私の根底に根付いて離れなかったんだ、と思います。
いわゆるHSP気質な私。
相手の声色が一段下がっただけで「何か気に障っただろうか」と胸の奥がざわついて離れない。
相手の真意を探っては、終着点のない自己反省をひたすら繰り返してしまう。
答えなき問答をただ繰り返して、自分の時間も心もすり減らしていく。
空虚に、ただそんな日々を過ごしていました。
「時間」とは「人生」ですもの
育児と仕事、家庭を回す日々。
やりたいことは山のようにあるのに、使える時間は24時間と限られている。
気づけば、どうにかして時間をかき集める毎日になっていました。
スキマを探しては、あれこれ効率化して。
”あぁ、時間って「資源」なんだな・・・”
否応なく、自覚するようになりました。
こうなると徐々に、これまでの時間の使い方に違和感を覚え始めます。
誰かのために時間を割いてばかりいた自分。
それが正しいと信じて疑わなかった自分。
私は、何のためにこの時間を使っているのだろう?
これこそ見過ごしちゃいけない、本質的な違和感だと思います。
時間は、人生そのもの。
誰かの機嫌を守るために捧げ続けていられるほど、人生は長くないんですよね。
まずは自分のために、自分を生きなきゃもったいない。
「いい人」な私に酔っていた私
「いい人」でいるために、かつての私は必死でした。
相手の都合に合わせてスケジュールを調整し、
頼まれたらあれもこれもYesと答えていた。
断れない自分をごまかしながら、体力も心も削っていく。
「頼られるってありがたいこと」
「期待に応えなきゃ」
「早く悩みを解消してあげないと」
本気で信じていたし、それが ”正しいことだ” と思っていました。
それがめちゃくちゃ格好良いことだと思っていました。
「アンパンマン=正義で、ばいきんまん=悪なんだ」と。
私は正義のヒーロー側になれるのだと、そう驕っていました。
はぁ、恥ずかしい。
これぞ “承認欲求” だったんだと思います。
相手に感謝されることで、自分の存在価値を感じたいだけ。
それって、幸せなの?
やがて、背伸びした言動が自らを苦しめ始めました。
自分で創り上げた檻で自由を失った私…
無理って続かないものですね。
境界線を引く、という技術
「いい人」をやめるって、性格論や根性論じゃないんですよね。
最近ようやく気づいたのですが…これは“技術”でした。
たとえば、
- プライベートの連絡は、お昼の12〜13時だけ返す
- 何か頼まれたら即答しないで、一度持ち帰る
- 「自分の時間をどう使いたい?」を考えて設計する
- 優先順位を紙に書いて、迷ったらそこに戻る
こういう地味な工夫です。
境界線って、気合で守るものじゃなくて、
仕組みで守るものなんだなと実感しました。
人間は感情で揺れる生き物なので、
「よし、今度こそ断ろう!」と意気込んでも、
いざ目の前に来るとつい動いてしまう。
だからこそ、戻る場所(原則)が必要なんですよね。
揺らいだときに立ち返れる“ホーム”みたいなもの。
「いい人」をやめると、人生が動きはじめる
境界線を意識するようになってから、
少しずつですが不思議な変化がありました。
…まず、静けさが戻ってきました。
次に、「本当はどうしたい?」という自分の声を
ちゃんと見つめられるようになりました。
以前の私は、相手の期待に合わせて動きすぎていて、
自分の心の声なんてほとんど聞いていませんでした。
今思えば、あれは“生きている”というより
ただ“回っていた”だけだったように思います。
境界線を引くことって、誰かを拒絶する意味じゃない。
むしろ、
「私の人生に、私を呼び戻す」
そんな行為なんだなと感じています。
私には守りたい家族がいて、
自分のペースで育てたい未来があって、
磨きたいスキルや才能があって、
形にしたい創作がある。
それなのに、
“いい人”でいるためだけに時間を差し出すのはもったいない。
人生はそんなに長くないし、私は私の人生を生きたい。
だから、いい人をやめた。
そして、そこからやっと人生が動き出した気がします。
大げさじゃなくて、
「自分に集中していい」と許可を出した。
それだけで、世界の見え方が変わりました。
静かに、でも確かに。
人生って、こうして動きはじめるんだなと思います。
まずは最初の一歩。
あとは、浮力で自由に飛んでいけるはず。